福岡の礎

九州は古くから大陸に開かれた日本とアジアの接点として、それぞれの文化が交わってきました。
中世近世の日本において、大名や旗本の支配権の大きさや、経済規模を表す単位だった石高は、領主の収入や保有できる武士などの軍事力、農民に対しての年貢など力の象徴でありました。

徳川家康の天下となった江戸時代、戦での功績から日本で7番目の石高となる52万石を与えられたのが黒田長政ですね。
長政は、新たな領地に城を築き城下町福岡に新な歴史を刻みました。

慶長5年豊臣秀吉亡き後、徳川家康が総大将の東軍と石田三成を中心とする西軍が戦った関ケ原の合戦。
この時、後の福岡藩初代藩主である黒田長政は、三成との対立もありまた、妻の父でもある家康率いる東軍として関ケ原の合戦に参戦。

長政は、東軍が勝利する大きなきっかけとなる功績を挙げます。
戦いで勝利した徳川家康は後に天下を統一し、265年間続く江戸時代が始まりました。
関ケ原の合戦後、約400年前の福岡県周辺は筑前、筑後、豊前、豊後とそれぞれに領地が定められていました。
長政は、父黒田官兵衛から受け継いだ豊前12万石の領主でした。

合戦後、長政はその功績によって筑前52万石を与えられ大名として大出世をしました。
そして、複数の候補地の中から現在の福岡市中央区城内に領地の拠点となる城作りに取り掛かります。
築城にあたり長政は、黒田家縁の地である備前国福岡の地名から新な居城の地を福岡と変えます。

櫓の場所など城郭の配置は、城造りの名人と言われた父黒田官兵衛と取り組みました。
築城開始から7年。
周辺の河川と博多湾からの水を貯え浮かぶように配置された城郭。
そして、武器や食料を貯える47の櫓を備え、防御に優れた福岡城が完成したのです。

関ケ原の合戦後の微妙な政治状況の中で、いつ有事が起きても強い防衛力を備えた城郭を築くということは、当然のことでした。
堀に面して配置された横矢掛かりと呼ばれていた直角に曲がった道は、攻め込んで来た敵を側面から攻撃するために作られました。
この道は、中央区赤坂の北側に当時と同じ形で道路が整備され残そのまま利用されています。

長政は更に、博多の街も含めた戦に備えた街も行っています。
博多湾の海岸線から博多部の東にかけて多くの寺を集め戦となった場合、武士が集結する場所となり戦闘の際に墓石は盾として使用し、食料などの備蓄も行える陣としすると考えていたようです。
他にも、領地の経済を支える農村部の基盤整備を行うなど、福岡の基礎となる功績を多く残しています。

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